母という生き物
一人の息子が家を出ることを決めた。
何ヵ月も前から話が出ていて、何ヵ月もかかって話し合いをしてきた。実現に向けて準備してきた。
私はと言うと 悪くない気分である。
もっと正直に言うと もろ手をあげて嬉しい。
息子にとって自分で生活すること、働くことなど はじめてのことばかりであろう。以前の息子だったらハードルを見上げて無理そうだと感じ、やっぱりやめておくと言っていたであろう。
今の息子は 違う。
社会人として働くこと。
教えてもらうことばかりで失敗も もちろん多いと言う。知らないから当たり前だと。教えてくれる人がいてありがたい。いい人たちで恵まれていると言う。
自分で生活すること。
お兄さんに教えてもらうことばかりだと言う。言いなりになってばかりではなく自分のNOも言うという。
仕事と生活の両立、やってみたことない。どうなるかなんて、誰もわからない。それならば、やってみるしかないと言う。
息子の報告から察すると
前を見ている感が伝わってくる。
すべてを楽しんで‼️
私は心の中でエールを送る。
いよいよの 日となる。
身の回りの物をリュックに詰めてあっという間に玄関を出ていく音がした。
ほんの微かに感じるのは
モウココニハカエッテコナイ
チガウトコロデセイカツスル
というサワサワしたもの。
今まで息子にしてきたこと
それは私にとって面倒くさいこと
自分でやってほしかったこと等々
もう私の出番はない。
なぜなら、いないから。
ふと 母という生き物は子どものためと言いつつ自分のために しているのではないかと感じる。自分がしたことを誰かに喜んでもらいたいから 自分がしたことで誰かが助かるから。
お母さんの胎内に宿るところからお母さんが何かをすることは始まっている。以来、子どもに何もしないというときはなかった。時には自分のやることを後回しにしたり、時には予定をキャンセルしてまでも子供のことを優先してきた。いつの間にか子どもを見ると自発的に何かをするということが紐づいてしまっている母。子どものことをする自分に何の疑問を持たずにしてきた。母の役割は家族のことをする人。(→あくまでも自論)家族に認められると不思議と自分の価値が上がる気になる。
今回、引っ越しのことで私がしたことはお金のこと以外 何もない。
何もしないことはいけないこと・・?
自分が少しでも役に立ちたいから たくさんのことをやっているのではないだろうかと私は思う。
家族の誰かのためにしている自分に価値があると思っていないだろうか?
やってあげる人がいなくなり 必然的にする必要がないことになる。
ひとつ屋根の下にいなくなることで 目に見えることでは 、全く子どもにすることがなくなる。
なんともなんとも・・・・。
さしあたり外出時
一人家に残るヤツにお土産を買う自分。
息子と私の分。
息子に買うのは久しぶりであることに気づく。
選ぶときにヤツの喜ぶ顔を
想像している自分。
味の好みがうるさいヤツなので
簡単には気に入らないだろうなあ。
気に入っても私と一緒には
まずは食べないだろうなあ。
無理とか言って・・・。