誰かを喜ばせようとすると自分を亡くすことになるかもしれない
誰かのために動くことは嫌いではない。
むしろ、自ら動いたりもしている。
そこには動きたい自分がいる。
誰かが、自分のしたことで、喜んでくれるのであれば それに越したことはないからである。
その時に、忘れてはならないのが 自分を曲げてまでも誰かのためにする必要はあるのであろうか?
たとえば
自分の目指していることを曲げてまでも。
たとえば
自分のなりたい姿になることを手放しても。
たとえば
自分が自分であることを
やっと見つけたというのに・・。
たとえば
自分の生きる道の出発点に立ったというのに
その地点から道を変えてまでも選ぶ、誰かのためにすること。
その誰かは、そりゃあ嬉しいと言うだろう。
自分も、その誰かの嬉しい様子を見ることで
やった甲斐があったと感じるだろう。
でも、そこで
「待った❗️」
をかけたい。
あなたは、それでいいの?
あなたは誰かのことを優先した。
そして、自分自身の道を歩むことを削った。
あなたは自分時間を削ってまでも
時間を 人のために使うことを
本当に望んでいるの?
他人のリクエストを聞いていると
そのリクエストを叶えてあげたら
どんなに喜ぶだろうかと思う自分。
自分を頼ってリクエストをしてきたら
自分にできることがあったらしてあげたいと思う自分がいる。
なにもしない自分が悪いような気になる。
待って。
他人のために何もしないとしても
他人が喜ぶことをしないとしても
それは 決して悪いわけではない。
ふと
他人は 自分の都合で言っているだけだということに気づく。
他人は、私の思い描く未来など知らない。
知らない上で リクエストをしてくる。
リクエストが来たとしても
答える答えないは
私自身である。
自分を保つこと
私にとって割りと大変である
その大変さと
真正面から
向かい合うのが自分である。
自分の無理な範囲をわかっていること。
自分が人のために無理しているかどうか。
自分が自分のために無理しているかどうか。
無理してまでも
自分にとって価値あることであるならば
受け入れてもいいと私は思う。
だらだらと書いてしまった。
自分のための
備忘録として。
自分自身を保つために。